「おかえりモネ」が描いた障害者スポーツのエゴ。パラリンピック的な思想とどう向き合うか。【宝泉薫】
エゴというものは人間が楽しく生きるには必要不可欠で、各自が可能なだけ発揮すればいいし、ぶつけ合っても構わない。ところが、こと、障害者と健常者という構図になると、そうも言えなくなるのである。
障害者はたとえ、パラリンピックに出られるような人であっても、世間的には「弱者」と位置づけられているため、そのエゴを指摘するだけでも「弱い者いじめ」として叩かれたりする。本来、人間はみな、誰もが不平等だという点において対等であり、個々がそのエゴをぶつけ合うのも自由なはずなのに、障害者に関してはとにかく健常者が「配慮」せよという圧力がかかりやすいのだ。
もちろん、障害者がそのあたりを上手く利用して自己実現しようとするのは構わない。そのかわり、健常者がその行き過ぎに文句を言うのも構わないわけだ。そこがまずまずちゃんと機能しているのが、義足の走り幅跳び選手、マルクス・レームの事例である。
この人は障害者だが、五輪でも金メダルが狙える実力を持ち、出場したがってもいる。ただ「義足が有利に働いているのでは」という疑問が呈せられ、出場は実現していない。健常者側もきちんとエゴを通したのだ。
これとは別に、性的少数者のエゴが勝ったのが、トランスジェンダーの重量挙げ選手、ローレル・ハバードの事例だ。生まれたときの性別は男で、男子として競技をしていたが、性別適合手術を経て、女子として競技を再開。東京五輪への出場を果たした。
当然ながら、他の選手からは不公平になるという声も出た。また、女子マラソンの元・名選手、ポーラ・ラドクリフは「男性として生まれ男性として育った人間が、性自認が女性であるというだけで女子スポーツに出場することはあってはならない」「スポーツにおける男女の定義を台無しにしてしまう」と反論。しかし、そういった主張は受け容れられなかった。最近のBLM運動などもそうだが、これはもはや誰が弱者かよくわからない状況の反映でもある。
そう、問題はこの状況を支える世間の空気感だ。パラリンピックでいえば、以前、みのもんたがこんな発言をしたことがある。
「テレビ局はパラリンピックをもっと中継しなくてはいけません。こっちのほうがオリンピックより大事なんですから」
いったい、何を言っているのかと思ったが、世の中にはこういう感覚の人もけっこういるようだ。最近の過剰なまでの「弱者・少数派びいき」という風潮は、こうした人が増えたか、その勢いが激しくなった結果だろう。
そんな人たちは、マルクス・レームのこんな発言に我が意を得たりなのだと思われる。
「人々を区分けするのは正しくありません。よりよい社会を作るためのチャンスなんです」
そりゃ、この人にとってはそうかもしれないが、スポーツなんてやるのも見るのも好き嫌いでしかない。そこに「正しさ」とか「よりよく」なんて価値観を持ち込まれても、違和感を抱くだけだ。
むろん、この人がそれを言うのも自由だが、そこに乗っかって「弱者・少数派びいき」をする人たちの存在が、そこに反発したい人のエゴを不自由にする。彼らは障害者スポーツへの好き嫌いを善悪に読み換えることで、そこにあるエゴもひっくるめて美談にすりかえようとするのだ。